残念石の歴史

残念石

ざっと400年前、大阪城を築いた頃に残念石の歴史はさかのぼります。

豊臣秀吉が築城した際にも相当な数の石が必要だったと思われますが、
大阪城は豊臣家の滅亡により、徳川家によって再建されます。

その際、石垣は壊され、城は埋められ、
豊臣時代の大阪城に数メートルから10メートルの盛り土をして
現在の大阪城が建てられました。

現在の大阪城の地下1メートル程のところに
豊臣時代の6メートルもの石垣が見つかったそうです。

6メートルでもあんな大きな石を積むのはすごいと思うのに、

2回目はナント32メートルの石垣に超グレードアップ。
これ日本一の高さなのだそうですよ

各地から運ばれてきた石

堀と石垣を作るのは幕府から命を受けた外様大名。
大名たちは自分達の仕事を誇示するかのように
石に家紋などの刻印を打ちます。

大阪城に使われている石の数は1万個以上なのだそうで、
その石たちは大阪や兵庫、京都、小豆島…
また廃城となった城からも運ばれてきました。

徳川時代の大阪城築城には9年を要し完成。
その後落雷にあったり、燃えたり様々な歴史を辿るのですが…

残念石

遠方から運ばれてくる石。運び方は川経由もあれば、人が担いだり、
修羅<しゅら>と呼ばれる木で作った船を丸太を車輪がわりに引っ張って運んだとされています。

すごい労力をかけ、また、大名の威信をかけ運ばれる石ですが、
落ちる石は落ちる。
江戸城の時には300隻にも及ぶ船が沈没したそうです。

そうして運搬途中に落ちてしまった石は縁起の関係もあり、
落としままにされたのだとか。

そうしてお城まで辿り着けなかった石を
『残念石』と呼んでいるわけです。

残念石の特徴

残念石は人の手で切り出され、
さらに家紋のようなものが刻印されているという大きな特徴があり、
切り出された跡というのは矢穴<やあな>と呼ばれ、
クサビを叩いた跡であろうと推測されている。

大阪城の残念石

そして家紋のような印

こちらは大阪城の石切場とされるところに少し解説がありました。

現在に残る残念石

大阪城の刻印一覧でもまだ分からないところがあるなんて
ロマンですね。調べてみたくなります。。

この残念石、探せば全国色んなところにあるようです。
中にはモニュメントとして残念ではなくなっている石もあるそうで、
石の何かを見つけたり、何故ここに石が?と思ったりしたら
矢穴や家紋のようなものを探してみてください。

割と近くにあったりするかもしれません。
私もこれから沢山の残念石を見つけていきたいと思います!

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